狐の森


 樹海には水源が確認されていないんですと、比良坂は言った。
「だから、それを知らずに迷い込んだ人間は飢えと、それ以上の乾きに最期まで苦しめられることになる訳です」
 悲惨な話ですよねと大仰に表情を歪めてみせる比良坂に、車の後部座席に手錠を掛けられた格好で座っていた銭形は憮然とした表情で答える。
「それじゃ、あんたらは俺たちをそんな悲惨な運命に追いやろうとしている訳か」
 ウインドウガラスに貼られた濃いめのスモークフィルムに遮られているせいで碌に見えない車外の風景から、やはり手錠で両手を拘束され、自分の肩に寄りかかった姿で眠っている碓氷に視線を移す銭形、すると比良坂はとんでもないとばかりに否定してくる。
「そんな不確実な真似はしませんよ。お二人とも確実に息の根を止めてから”処分”させていただきます」
 その点はご安心下さいと請け合う比良坂に、今の銭形は憮然とした表情を向ける以外の対応を思い付かないようだった。
 やがて車は曲がりくねった舗装道路を外れ、鬱蒼と生い茂る木々の狭間に作られた細道の奥で停まった。黄ばんだ頼りない照明に照らし出された空間は、どうやら駐車場らしい。
「それでは、此所で降りてください」
「こいつも一緒に降ろすのか?」
「ええ、一緒です」
 この場にはそぐわない笑顔で頷いてみせる比良坂に、銭形は相変わらず憮然とした表情のまま器用に手錠を嵌められた状態の両腕で碓氷を抱きかかえ、その格好のまま車から降りてみせた。充分に広げることの出来ない筈の腕で成人男性を抱えているとは思えない機敏な動作と揺るぎない足取りに、碓氷を車から引きずり出そうと待機していた比良坂の部下と思しき男が気色ばむ。
「一緒でいいんだな」
「警部殿は力持ちなんですね。いいですよ、そのまま付いて来てください」
 銭形から碓氷を引き剥がそうと近付きかけた部下を軽く手で制し、比良坂は鷹揚に答える。碓氷を叩き起こして自分の足で歩かせるよりも、銭形に”重荷”を持たせておいた方が色々な意味で安全だと判断したのだろう。
 森の中を進みながら、比良坂は喉を撫でられた猫のような表情で銭形に話しかける。
「ところで警部殿、あなた方の最期に関しては出来うる限りそちらの要望を酌みたいと思っておりますが、どう言った死に方がお好みですか?」
 何でしたら付近の湖で溺死というのも可能ですから、ご希望でしたら仰ってくださいと笑顔のまま続ける比良坂に、銭形は薄ら寒げな表情で答える。
「あんた自身のお薦めは、あるのか?」
「そうですね、個人的には首吊りが一番確実だと思っています」
 お二人を、自力では絶対に届かないような高い枝に吊しておくのも面白いかもしれませんね。ひょっとしたら”部品”が落ちてくるまで誰も気付かないかもしれませんよ。そんな物騒な台詞を実に無邪気な表情で言ってのける比良坂。
「…… あんたの属する組織を潰した以上、俺が怨まれるのは仕方ないが、どうして単に俺の部下だったこいつまで巻き込むんだ?」
 そんな銭形の質問に、比良坂は一瞬だけ何を言われたのか判らないような表情になったが、すぐに笑顔に戻って答えた。
「ああ、それはこの男があなたの部下だったからです警部殿。まあ”もののついで”という辺りですね」
「つまりあんた、人殺しが好きなのか」
「ええ、大好きです」
「そうか、それだけ聞けば充分だ」
 直後、銭形は跳ね上げるような動作で碓氷の身体を左肩に担ぎ直し、それと殆ど同時に右手を翻らせた。迸る閃光。重なり合うように響き渡る銃声。
 何とか視力を取り戻した比良坂が周囲を見回したとき、周囲に立つのは自分と、自分の眼前でいつの間にか銃を構えている銭形だけになっていた。二人の足元に倒れ伏した男たちからは呻き声すら漏れてこない。
「人殺しが好きなんだってな、アンタ」
 比良坂の眼前で先程までの銭形とは全く違う、極めて剣呑な雰囲気を纏った男が嗤う。
「銭形、ではないな!」
 反射的にスーツの袷に手をやる比良坂だが、相手の反応はそれ以上に迅速だった。右手の親指を極めて精確に打ち抜かれ、愕然としたまま銃を取り落とす比良坂に、男は殊更に余裕を含んだ表情で答える。
「オレはあまり好きじゃないけど、多分アンタよりは上手だと思うぜ」
「誰だ…… 貴様は」
 眼前に立つ男に対して痛いほどに感じる、”人殺し”として埋めようのない格の違いに怯えながら何とか言葉を絞り出す比良坂に、男は嗤って答えた。
「教えない」
 比良坂の表情が凍り付く、そして、銃声。
瞳から焦点が失せた比良坂の骸を見下ろしながら、銭形の顔をした男は最後に呟いてみせた。
「今回の事件でアンタ等の組織に迷惑を掛けられたのは、何もとっつぁんだけじゃなかったんだぜ」

狐の森

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 東京行きの電車が到着する数分前、通勤時間も終わった人も疎らなホームで、銭形は自分の名前を呼びながら駆け寄ってくる男の姿に気付いて顔を上げた。
「碓氷、わざわざ見送りに来てくれたのか?」
 そんな風に声を掛けると、碓氷は銭形の前で止まってから膝に両手を付いて息を整え、土下座せんばかりの勢いで頭を下げてきた。
「申し訳ありません警部!自分の方から誘っておいた約束を反故にしてしまいまして!」
 碓氷によると、昨日の勤務終了時間直前に実家から『碓氷の母親が倒れた』という連絡が入ったのだという。しかし、取る物も取りあえず職場から車で二時間はかかる実家に戻ると母親は変わりなく、家族の誰もそのような連絡はしていないと言われた。
「その時点で戻ろうとしたのですが、その…… 、母が強引に引き留めてきまして、断り切れませんでした」
 警部の携帯にも何度か連絡を入れようとしたのですが全く繋がらなくて、と済まなそうに続ける碓氷に、銭形は笑って答える。
「お袋さんが喜んだのなら、親孝行したじゃないか」
「そう言っていただけると…… でも、本当に警部をお連れしたかった店なんです。とても美味しい地鶏を出すんですよ」
「ああ、そうだな」
 銭形の言葉に碓氷は真剣な表情で頷いてから、機会がありましたら是非またこの街にいらして下さいと続けた。銭形もそんな碓氷に頷いてみせる。
 と、その直後、軽快なメロディと共に電車の到着を告げるアナウンスがホームに流れた。
「それじゃ碓氷、元気でな」
 銭形が開いたドアに乗り込みかけると、碓氷は思い出したように手に持った何かを差し出してくる。良く見るとそれは紫地に小花模様の入った四角い巾着袋だった。
「うちの地方の銘菓です、警部は甘いものをお好きだと伺っておりましたので宜しければ」
「ああ、済まんな」
 銭形が袋を受け取ると、ちょうど電車の扉が閉まった。そのまま滑るように走り出す電車。
 ホームに立つ碓氷に軽く手を振ってから空いている席に着いた銭形は、この街を再び訪れることがあるなら再びあの店を訪れたいものだと思いつつ、さっそく巾着袋の中から黄粉と黒蜜が添えられた餅菓子を一つ取り出した。

狐の森
→青猫亭たかあきさんのサイト「青猫亭綺談

→狐と狩人
先日いただきましたこちらのSSの続編に当たる、実に垂涎な内容にその辺でのたうつオブサワです。
滾りすぎてえれえ不吉な絵も描いております。クリックするとでっかい表示。
例のごとく、私とたかあきさん間で通じる謎のギミックは健在です笑
しかしもうね、もう「警部」が格好いいったらない!読みながらあああーとかへああーーとか駄目な悲鳴を上げまくっているほどに惚れ惚れとしているわけです。
あの時のお食事会がここまで昇華されるなんて!もううれしすぎて今なら空も飛べる。
たかあきさん、本当にありがとうございましたーー!!

●2009/9/3アップ
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