狐と狩人


 誘われるままに軽く腰を屈めた格好でくぐり戸を抜けると足元に土間、その先に黒々とした板張りの床が見えたので、銭形は一瞬だけここで靴を脱ぐのかと悩んでしまった。
「警部、こっちですよ」
 彼をここまで連れてきた男は平然と板間に進み、店員の案内した座敷席の近くまで来てからようやく靴を脱ぐ。促されるままに奥に進んだ銭形は自分も靴を脱いで座敷に上がり、男と差し向かいの格好で座った。年季の入った飴色をした座卓には既に二人分の皿と箸が置かれている。
「…… この店には良く来るのか?碓氷」
 橙色の灯りに柔らかく照らし出された、さして広くないが雰囲気の良い店内を何となく見回しつつ銭形が訊ねると、碓氷と呼ばれた男は傍らに置いてあるお品書きを開きながら事も無げに答えた。
「常連と言うほどではありませんがね。メインはコース料理として、まずは何を飲まれますか?」
「あぁ、それじゃビールを」
 判りましたと、ちょうどお絞りと突き出しを持ってきた店員に淀みなく注文の品を告げる碓氷。

「とにかく事件解決、おめでとうございます」
 醤油と味醂で甘辛く煮付けた血肝を箸でつまみながら、自分が注文したモスコミュールのカップを傾ける碓氷に、銭形はいささか疲れた表情で頷いてみせる。
 もともとこの地方都市に銭形がやって来たのは、とある美術館に収蔵されている世界的にも有名な画家の絵を狙ったルパンが例によって予告状を届けてきたのが全てのはじまりだったが、今回の事件はそれで終わらなかった。
 展示されていた絵がはじめから偽物だったことに憤ったルパンと、地元警察官である碓氷と共にルパンを追う銭形は、やがて不本意ながらも世界的な闇美術品売買組織の存在に辿り着き、大騒動の末に組織を壊滅させたのだ。いわゆる『お偉いさん』が何人か関わっていたせいで後始末が大変だったが、それもようやく決着が付いたので明日は東京に戻る。そんな晩に、碓氷は銭形をその地方では有名な地鶏料理店に誘ってきたのだった。

「でも実際、まさか話があそこまで大きくなるとは思いませんでしたよ」
 短い間だが自分の元で部下として働いていた男の呟きに、殆ど一息にビールを飲み干してから曖昧な表情で答える銭形。
「ルパンが絡めば、大体こんなもんさ」
 嫌な話だが、長年ただひたすらにルパンという男を逮捕することに全てを賭けながら常に彼を捕り逃がしている銭形が、それでも警官としてルパンを追い続けていられるのは、こういった『余録』によって(当人にとっては無駄に)手柄を重ねてきた実績によるものだった。ルパンの影が差す処に必ず現れ、様々な難事件を解決しては再び去っていく敏腕警部…… 全くお笑い種でしかないのだが、世間一般の銭形に対する評価はどうもそういうものらしい。
 少しばかり物思いに沈んでしまった銭形の前に、店員が皿に載った大振りの焼き鳥を一串置いていく。うっかりそのまま串を持って口に運びかけるが、眼前の碓氷がごく自然に箸で串から肉を外しているのに気付き慌ててそれに倣った。
「コレは、旨いな」
 軽く炙っただけの肉は柔らかく、噛み締めると口の中でほろほろと崩れていくようだった。夢中で食べ終わる銭形に、碓氷が嬉しそうに話しかける。
「旨いですよね」
 ところで、まだ何か呑みますか?と続ける碓氷、銭形は少し考えてから地元産の日本酒を頼むことにした。

 新しい串と陶製のカップに注がれた地酒を銭形が堪能していると、自分はウイスキーを頼んだ碓氷がグラスを片手に少しばかり真面目な口調で言った。
「もしも失礼でなければお聞きしたいのですが…… 」
「何だ?今なら機密に抵触しない程度なら大抵のことは話せるぞ」
 上機嫌の銭形に、碓氷は何故か探るような瞳を向けながら言葉を続ける。
「警部にとって、ルパンとはどういった存在なのですか?」
 そんな問いかけに、銭形は一瞬だけ酒の味が分からなくなる。だが、碓氷の視線に奇妙なほど切実な感情が滲んでいるのに気付いて黙り込み、やがて話し出した。
「少し前に駅前の牛丼屋で昼飯を食おうとしたら、ちょうど席に空きがなくてな。仕方ないからコンビニで弁当を買って城址公園で食ったんだ」
「…… はあ」
 話の展開について行けなかったのか、いささか曖昧な相槌を打つ碓氷。銭形は構わず続ける。
「で、その辺のベンチに座って弁当を広げたんだが、割と近くでアマチュアの役者らしい連中が劇の練習みたいなことをしていた」
 何とはなしにその光景を眺めていた銭形だったが、どうやら物語はかの名探偵明智小五郎と美しき女賊の対決が主なテーマのようだと判断する。
「ああ、『黒蜥蜴』ですね。江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が戯曲にした」
 詳しいなと呟く銭形に、碓氷は少しだけ照れたように、若い頃は役者になりたかったんですよと答えてから続きを促してきた。
「それでな、そのうち明智役の役者と女賊役の役者二人が掛け合いをはじめたんだ」
 構図としては背中合わせで、しかし、お互いに見えない相手の表情を充分に意識しながら、名探偵と犯罪者は朗々とした台詞回しで舌戦を繰り広げるのだ。
「確か、こんな感じだったな、”追われているつもりで、追っているのか”」
 銭形がそこまで言うと、碓氷は次の台詞を口にする。
「”追っているつもりで、追われているのか ”」
『…… いずれにしても、勝つのはこちら』
 最後の台詞が重なり合うと、銭形と碓氷はお互いに含みのある笑顔を浮かべ合う。
「とまあ、大体はそんな感じだ。判ったか?」
「充分に理解できました。ああ、とり茶漬けと鶏スープが来ましたね」
 熱いですから気をつけて下さいと出された二品のうち、銭形は取りあえず茶漬けから片付けることにした。茶に浮かんだ小振りの焼きおにぎりを柄の長い木杓子でほぐして口に運びつつ、スープの入った細身の茶碗を注意深い仕草で傾けている碓氷に向かって話しかける銭形。
「しかしまあ、本当に旨い料理を出す店だな」
「そう言って頂けると、お連れした甲斐があります」
「こんな場所じゃ、例え同席している相手が生涯の仇敵だったとしても、食事に専念したくなるってもんだ」
 銭形の言葉に碓氷の手が一瞬だけ凍り付いたように止まる。だが、それは本当に一瞬だった。
「そうですね…… 。ああ、本日のデザートはアイスクリームらしいですよ」
「ほう、そりゃ楽しみだ」



狐と狩人
→青猫亭たかあきさんのサイト「青猫亭綺談

先日たかあきさんとお会いできる栄光に授かり、美味しいと評判の地鶏専門店に連れて行ってもらったのです。
そこで出てきた料理やお酒を元に、なんということでしょうこんな素敵なSS頂いちゃったわけです!ギャアアアタシ明日死ぬんじゃないかととか思った。
この距離、この雰囲気、まさに自分の求める最高の関係ここにありとばかりに滾らせていただきました。
ちなみに自分だけめっさうれしいギミックまであるというおまけつきですウフフーv
たかあきさん、ありがとうございました。また是非遊んでやってくださいv

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続編も貰っちゃったよー!!
この後におきた事件とその後をSSにていただいております。
こちらも激しくおすすめです、とりあえず読んどけ、皆!

→狐の森

●2009/6/27アップ
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